あらかぶの味噌汁 ーー第3章
広がる海の世界と、大人になってからの再発見
幼い頃から週末になれば父に連れられて磯へ通い、仕掛けの作り方から魚の味わい方まで教わっていた私は、どこかで「魚釣りというものは、こういうものだ」と分かったつもりでいた。父の隣で教わった知識や技術こそが、釣りの世界のすべてであるかのように感じていたのだ。
しかし、自分で実際に竿を出し、海と向き合うようになってから、その世界がいかに広大で、自分の知らなかった表情に満ちているかを思い知ることになる。
あの頃、父と狙っていたのは主にチヌやアラカブであり、それだけでも十分すぎるほど豊かな釣果だった。だが、防波堤や磯から狙える魚種は、それだけにとどまらなかった。
ある時、ルアーをキャストしたり、生き餌を弱らせないようにそっと海に泳がせたりする釣法を知った。すると、これまで出会ったこともなかったような魚が姿を現した。
海底の砂地に身を潜めるヒラメや、サラシの中から突然猛烈なスピードで食い上げてくるスズキなど、狙う仕掛けやアプローチを変えるだけで、海の様相は一変した。
私が感じる魚釣りの難しさの一つは、狙う魚によって釣り方そのものを変えなければならないことだった。釣具店に行けば、ターゲットとなる魚種ごとに細かくコーナーが分かれており、道具も仕掛けもそれぞれ異なる。
もしも、先人から何も教わらず、まったくの独学で魚を釣り上げようとすれば、それは簡単なことではない。
なぜなら、海面をいくらじっと凝視したところで、そこにどんな魚が潜んでいるのか、その姿を見ることはできないからだ。目に見えない水中を相手に、確かな手応えを得るためには、どうしても何らかの導きが必要だった。
「こげんふとかとが釣れたげな……」
振り返れば、私が海で出会ってきた数々の魚たちは、すべて父をはじめとする先人の教えがあったからこそ手に入れられたものだった。
自然が相手なだけに、釣れる時期や潮の干満、その日の波や風の様子を細かく見極める必要もある。釣りの計画を立て、自分で道具を吟味し、釣行に通うようになってから、釣りの奥深さと面白さはさらに増していった。
すべてを自分の責任と判断で行うようになったとき、かつて父と並んで立った南島原の磯の風景が、まったく違った深みを持って目の前に立ち上がってきた。
父に連れられていた子ども時代には見えなかった潮の動きや風の匂い、そして自然の厳しさ。それらを感じながら海に向き合う時間は、私にとってかけがえのない大人の時間となっていった。
しかし、大人の釣りがもたらすのは、そんな穏やかな時間ばかりではない。時には、自然の厳しさを思い知らされる苦い経験もあった。
早朝からどれほど粘っても、一匹も釣り上げられないまま、太陽が容赦なく頭上に昇ってくる。
特に夏場の防波堤の上では、コンクリートからの強烈な照り返しが体力を激しく消耗させ、心も折れそうになる。汗だくになりながらウキを凝視する私の横で、釣果のない時間がただ無情に過ぎていくのだ。
そんな状況の中で、周囲の釣り人たちの動きを見ていると、時折ハッとさせられる光景に出くわすことがある。
誰もが釣れずに苦戦している中、後からふらっとやってきた一人の熟練者が、手際よく仕掛けを投入し、わずか1時間ほどで鮮やかに大物を釣り上げてしまう。
防波堤にいる他の釣り人たちの視線が一斉にその人に集まったかと思うと、本人は「もう十分だ」と言わんばかりに、満足そうな表情でさっさと納竿し、風のように去っていくのだ。
その一連の立ち居振る舞いを見ていると、経験のある人とそうでない人との違いを感じさせられた。
無駄な力みがなく、海の状態を読み取り、必要なタイミングで結果を残す。その姿を見て、釣りはただ長い時間を海辺で過ごせばよいというものではなく、そこに至るまでの準備や経験が大きく関わっているのだと思った。
自然を相手にする釣りだからこそ、経験を積み重ねることの意味がある。熟練者の姿は、そんなことを静かに教えてくれているようだった。

